一説によると、日本でのストリート・バスケットボールの発祥は、1991年10月とされている。
「空にボールのような丸い月が出ている深夜1時、バスケットが死ぬほど好きな少年たち数人が、駒沢公園に集まった。彼らは自分たちで作ったバスケットリングを、こっそり公園の壁に取り付け、そのリングのバックボードに、ROCKERSとペイントした。駒沢ロッカーズ、ストリート・バスケットボールの始まりである」
今なお残る駒沢ロッカーズコートはジャパニーズ・ストリートボールの発祥の地であり、現在まで続いたシーンの全ての始まりであった。
その第1次ストリートバスケットボールブームの真っ只中にいた二人のボーラーや駒沢ロッカーズとしてプレイしていたボーラーらによって1998年、横浜をプレイグラウンドとする「Team-S」が結成された。スポーツブランド主催の大会やテレビ局主催の大会、ことあるごとに出場しTeam-Sがそのタイトルを制した。「横浜の雄」がジャパニーズ・ストリートボール・シーンの頂点として君臨する時代が何年も続いた。
しかし、時代が動いた。2002年、本土より島国に流れついた1本のMIXTAPE(ストリートボールのプレイ集)により、第2次ストリートボールブームが発生したのである。一時期下火となっていたシーンも息を吹き返し、また同年10月には日本で初のプロ・ストリートボール・クルー「FAR EAST BALLERS(当時はBALLS)」が誕生したのである。横浜の雄とプロ・ストリートボール・クルーは真っ向から衝突することとなる。イベントのメインイベントはいつも決まってこの両チーム。ストリートボール創世記からの歴史と、当時から大勢のメンバーを抱えていたTeam-Sと「プロ」を掲げたFAR EAST BALLERSはお互いに譲ることの出来ない立場にあったのだ。戦歴はいつもイーブン、どちらかの頭が出ることもなかなかなかった。
その睨み合いに満面の笑顔を浮かべて割って入ってきた集団が2003年に現れた。それが柏レペゼン「勉族」である。押さえつけられることのない自由なバスケットボールを求めて、ストリートに行き着いた。独特の雰囲気、平和的な態度、片手にはビール、それでいて確かな実力をかね揃えた勉族は、抗戦ムードであったTeam-SとFAR EAST BALLERSの情勢を変えてしまったのだ。勉族がTeam-Sを下した、Team-SがFAR EAST BALLERSを下した、FAR EAST BALLERSが勉族を下した……、と三つ巴の状態にいつしかなっていったのである。
新しいチームが台頭しては消え行く時代にも、この3チームは常にシーンのトップとして睨みを利かせていた。それぞれ独自にシーン拡大の運動を始め、Team-Sはクラブイベントを定期的に開催し、FAR EAST BALLERSはプロとして様々なメディアへの露出、海外への挑戦、マーケティングの拡大など精力的に活動、勉族はまだストリートボールへの馴染みの薄い地元の柏でストリートボール・イベントを1から手作りで開催した。
そうやって、ジャパニーズ・ストリートボーラーらが土壌を作り上げる中、2005年また新たな風が舞い込んできたのだった。ストリートボールのメッカ、ブラックコミュニティーからのリアル「SUNDAY CREW」の登場である。自身の実力にも、自国の文化にもプライドを持つ彼らアメリカンボーラーらは「ストリートをレペゼンする者は、代々木に来い!!」と代々木のナイキコートから毎週発信するようになった。
ジャパニーズ・ストリートボーラーから立ち上がったのはFAR EAST BALLERSであった。舞台は体育館であったがSUNDAY CREWと正面からぶつかり合い、一度はその力に圧倒され苦渋を舐めるも、後には一矢報い戦歴はイーブン。
今、ジャパニーズ・ストリートボール・シーンは先に挙げた4チームを中心に回っているといっても過言ではない。彼らの中には早くもストリート・レジェンドと呼ばれるものもいる。しかし、どこもまだ王朝を手にしてはいない。同じライン上で睨みあっている。そして、ストリートは広く開かれた空間である。つまり、今はまだ無名で誰からも知られていないボーラーも、一日にしてストリート・レジェンドとしてシーンの頂点に立つこともあるのだ。
8・28、いずれにしても伝説が生まれる。日本で始めてのストリートボール・トーナメント。ストリートボールの聖地、代々木ナイキコート。レジェンドたちの饗宴。そして、ストリートの門は広く開かれている。
伝説を観るもよし、伝説を創るもよし。自由なスタイル、それもストリートの醍醐味である。
(この文章は2005年8月に発行されたフリーペーパー「ALLDAY」に掲載したものを加筆したものです。)